かみじょー実家は園芸家
近すぎると気が付かないことが多々ある。
実家なんて良い例だ。
そこに見てる景色は幼少から変わらず、
当然のように視界に在るから
在ることが当たり前という感覚に陥ってしまいガチだ。
そういうわけで、かみじょー家について、
いや、具体的には我が実家の緑について記事にしていこう。
長野県の田舎育ちのかみじょーは、
緑というものに囲まれて生きてきた。
庭に群生する幾多の緑、
季節を彩る香りや色彩。
そんなものに全く興味がなかった少年時代。
価値あるものって本当は足元に沢山転がっているのかもしれない。
そんなことに気づかせてくれたのは、最近になってからだ。
かみじょー家の植物公開
軒下に緑のカーテンとして、やさしく蔓を伸ばすのは、ヘチマじゃなくてなんとゴーヤ。
生前、母が愛していた緑のカーテンだ。
長野という寒冷地でゴーヤが育つことも驚きだったが、
その季節に食卓にならぶ、ゴーヤチャンプルなどの母が作ってくれたゴーヤ料理も今となっては二度と
食べることができない。
名前を聞いたけど、忘れてしまった。
緑が揺れるのを見る明け方も好きだし、
満天の星空の下に夜風になびく緑を感じるのも大好きだった。
父が愛した盆栽。
かみじょーも見よう見まねで作ってみたことがあったけど、
結局、育ちきるまえに枯れてしまった。
苔は水分を十分に与えなくてはならないし、土壌の管理という面でも難易度が高い植物。
イメージ的には放置していても育ちそうな感じだけど、
寒さにも弱く、愛情を注いで育てないといけない気むずかしい緑の精霊さんだ。
いつか、苔玉にミニチュアのバンブー(竹)を入れて育ててみたい。
これが芳豆樹。
感じは違うけど、紅と緑の色彩が風流。
実はそんなに美味しくないけど、季節を気づかせてくれる案内人だ。
コスモスって宇宙って意味なんだろうけど、
平凡なその姿から、宇宙というよりも故郷を感じる。
秋を彩るコスモスの時期もまだ、半年以上先なんだな。
植物を育てる上で大切なこと。
植物を育てることに関して、父も母も日常生活の中で自然にやっていた。
もっと教えてもらったらよかったけど、少年期のかみじょーに植物を愛でる心は残念ながらなく、
今となっては我流で育てている。
でも大切なのは、当たり前かもしれないけど、
植物を愛すること。
かみじょーの座右の銘に
植物を愛せないものに
人は愛せない。
という言葉がある。
人と接する時と一緒。
その植物の幸せや成長を願い、
話しかけるように水をあげて、
家族のように迎える。
対人関係では、自分の思ったように相手が応えてくれないことって多いし、
それが人間関係だと思うけど、
ねこもそうだけどw
植物に関しては、
例外なく、注いだ愛情や手間暇に応えようとしてくれていると感じる。
だから、きれいな花を咲かせるし、
大きな実をつけ、
寒い冬も枯れることなく耐えしのいで、
そして、一緒に春を迎えられる。
いうなれば、植物と一年を共に過ごせることって
家族が安泰で、一年を一緒に祝えるのと同じくらい有り難いこと。
有難うなんだなって思った。
そして、人間同様
植物にも個性がある。
同じ植物でも、位置や根の付き方で、育ち方も違うし
害虫に弱い木があったり、
ちゃんと枝や枯れた葉の手入れをしないと気分を損ねてしまうものもいる。
だからこそ、1つの存在として
懸命に育て
そして、それも含めて家何だなって思った。
昨今の都会化、アパート化、家族の離散などで、
ひとり暮らし勢には、庭とか、植物を外で育てるなんて無縁になってきているけど、
誰もがきっと在るだろう実家や旧家などの景色には
そこに息づくみどりを抜かして語ることはできない。
愛情のあり方は、そんなところにもある。
どれだけデジタル化しても
手を汚して
土に混じり
そこに芽吹く命に目を向けない生き方をしてはいけないんだなぁ。
って感慨深くなった。
なんだかんだ言っても
親の存在は大きく、いくら反発してても
気が付くと親の背中を追いかけているんだなって気付かされる。
そして、思いの外その背中は大きく偉大で
まだまだ超えられない壁なんだと思った。
そして、かみじょーは
そして、なんだかんだで、職場でもかみじょーは毎日植物の世話をするようになり、
特にモンステラが何鉢も威風堂々と育っている。
この子たちも5月~9月の期間は植え替えの時期となるから
また何株かに分けて職場を彩ってくれるのが楽しみで仕方ない。
というわけで、かみじょー実家のみどりたちでした。チャンチャン。
writer:かみじょー
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